海の響きを懐かしむ

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ダンスフロアからコンビニ、そしてインターネットへ(「モテキ」再考)

以前映画「モテキ」を観てきて、それからずっと言葉にし難いもやもやがあったのだけど、しばらく時間をおいて考えたらだいぶまとまってきたので書いておこうと思う。だいぶ上映から時間が経っているけど、もしネタバレが嫌であれば、読まないほうがいいと思う。私の考察は劇中の音楽にまつわるものだけど、主なストーリーや人間関係に関する考察と解釈は、私の尊敬する友だちと先輩がとても優れた文章を書いているので、そちらをおすすめします。あと、きちんとした評論ではまったくなくて、あくまで個人の感想です。



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1 ダンスフロア

エンディングで森山未來スチャダラの「今夜はブギーバック」が流れたとき、ちゃぶ台返し的な裏切り感を受けた。「こんなのってないぜ」感というか、実にほろ苦い感情になった。

その理由はたぶん、日本の、東京における恋愛至上主義の理想とするかたちが、約15年間変わっていないかもしれないことへの恐怖から来ている。94年にオザケンがブギーバックを歌ったとき、日本はバブルが終わったあとで、いわゆる失われた10年に突入していたわけだけれど、この歌の裏にはそういう空虚さが確実に存在していると私は思っている。というか、渋谷系とよばれる人たちはそういう空しさを多少なりとも抱いて曲を作っていたはずで、たとえば映画のストーリーとはずれてしまうけど「東京は夜の7時」が流れても同じだったと思う。

不景気で、最悪で、でも僕たち私たち若いし愛し合ってるし、ノストラダムスの大予言を笑い飛ばしながら世紀末までダンスフロアで踊ろうね。ブギーバックは乱暴に言えばそういう曲だと思っている。だからこそ、2011年の今、最先端の恋愛映画のエンディングとしてこれが流れたことはかなり疑問で、これ以上の曲が、今の時代に真に歌われるべき音楽が存在していないことに少し落胆したのだった。


2 コンビニ

90年代の恋愛至上主義の頂点に「ブギーバック」と「カルアミルク」が君臨していたとすれば、それに対するゼロ年代のひとつの解答が、菊地成孔の「普通の恋」だと思う。タイトルと、歌い出しの「二人が出会った場所は おしゃれな場所じゃなかったの」からすでに感じ取れるように、すごく対照的だ。僕らは六本木のダンスフロアじゃなくて、その辺のコンビニで出会う。しかも甘ったるいカクテルではなくて、カッターナイフとチョコレートをそれぞれ求めて。

ノストラダムスをなんとか乗り越えた僕も私も、心の中には深い痛みを抱えていて、でも何もできない。だから神様に感謝するのではなくて、啓示を求める。日常と地続きのまま幸せになること。モテキの主人公も同じで、ヒーローじゃなくてどこにでもいる青年なんだけれど、求めている恋愛は「普通の恋」じゃない。(でなければ幸世はるみ子とくっついたはずだ)未だにダンスフロアに立ったまま。そこに私はリアリティを感じられなかった。まあ、そうしないと「モテキ」の映画として成立しなかったのかもしれないけれど。


3 インターネット

劇中の重要な小道具としてインターネットと携帯電話がある。今のぼくらの生活はインターネット無しじゃ考えられない。インターネット時代の恋愛至上主義のモデルは、もはや過去のそれとは全く違うはずだ。でも、未だにブギーバックを夢見ていることの、哀しさ、愚かさ。この映画は、そういうものをとってもポップに視聴者に突きつける作品、だと思った。そしてそのモデルを具現化する、強力なポピュラーさを持った音楽は、未だ存在していない。私は曲を作ることも歌詞を書くこともできないけど、もしこの映画の監督だったとすれば、「普通の恋」の「チョコレート」の部分を「インターネット」に変えて使ったかな、と思ったけど、それでもまだ足りない。


ポップスと恋愛至上主義の消費者・ユーザである我々が抱く理想は、インターネット時代において進化しているのか?映画「モテキ」は、そういうことを我々に問いかけている。そんな気がした。