海の響きを懐かしむ

観たもの聴いたもの読んだものの記録と、日記など

本という物質を貫く経験を その2

(つづき)

午後の日だまりの中をひたすらに南下した。本郷通りは日比谷通りにいつの間にか変わっていたし、神田は大手町になっていた。

 

ここにくると、ひとつひとつのビルが大げさに大きくて、「不思議の国のアリス」みたいな気分になる。身体が小さくなって、自分がミニチュアの要素の一つになったみたいだ。それから、いつの日だったか大通りの写真を見せたら、ニューヨークみたいねとコメントされたこともあった。同世代の人間がいまここで働いていると思うと、すこし背筋が伸びる。

 

丸の内に着いて、さてどうしようと考えて、丸善本店に行ったことがなかったのを思い出しオアゾへ向かった。4階の松岡正剛がプロデュースした一角は怪しい魅力でいっぱいで、神保町から来たのでなかったらまた本を買ってしまっていただろう。記念になにか一冊買おうかとも思ったけれど結局やめて、椅子に座って休んだ。

本の風俗街と呼ぶのが相応しい場所だった。縦横無尽に配置された本たちが、ささやいてくるのがわかる。

 

しばらく本棚を眺めながら、本当は人間はこういう風に「見えて」いるのだろうと思った。つまり、正常に本に狂った人には歪んで見えるのであって、現実に本棚をその通りに歪めてみたらこうなった、というような。

 

それから銀座へ向かい、老舗の喫茶店に入った。ずっと行ってみたかったところで、永井荷風もやってきたことがあるらしい。ストレートにすれば濃さや豆の種類を結構細かく選べたみたいだけど、ついカフェオレを頼んでしまった。お客さんは常連さんがほとんどで、店員に慣れた感じでお土産を渡したり冗談を言ったりしていた。

 

文庫本を取り出したけれどもなんだか疲れていたので、そのままぼんやりとして、この一日を貫いている本という存在について考えた。私は本が好きで、それは全く特別じゃないごく普通の主張で、グーテンベルクの銀河系に生きる凡人としての尊厳だと言い切ってもいい。思えば、以前に比べて本を所有することにあまり興味がなくなった。むしろ本のほうが、動的に世界をめぐっている様を眺めるのが心地よい。本に関してふしだらでありたくなった。

 

私を中心に本が配置されるのではなく、

私の周りで本が常に循環していてほしい。

 

貸し借りしたり、あげたりもらったり、時にはなくしたっていい。

最後まで読めれば万々歳だけど一目惚れでゆきずりでも別にいいや。

小説も新書も批評もライトノベルも技術書もぜんぶ受け入れるつもりだし、新潮社もポプラ社もオライリーも古本屋で買ったどこかもわからない出版社もみんな抱きしめたい。それで後悔してもかまわないし常にプラスなことばかりじゃない。人生と似てるんだ。だから、

 

本という物質を貫く経験すべてに死ぬまで執着する。