海の響きを懐かしむ

観たもの聴いたもの読んだものの記録と、日記など

くりかえしている

小説・詩歌を除いて、一般的に読書とは、文章を通して新しい知識を得る行為だと認識されている。実際、教科書や論文や雑誌なんかはそういう機能を有していると思う。でもかなりの場合、テキストを読み進めるとは「既知の何かを確かめる」行為だと感じることがある。人は、だいたいにおいて、“わかっていることしかわからない”んじゃない?肉体を使ってページを捲り、文字を追うということは、記されていることをヴァーチャルに追体験するだけなのかもしれない。フィジカルな経験でのみ真のインプットが可能であるとして、その反復としての読書行為。

そういう意味で、「ハノイで考えたこと」には、まったく私が“知っていること”しか書かれていなかった。どこを読んでもあの時の感覚・思考がリアルに息づいていた。苦しくなるくらいに。

Susan Sontagが、歴史的にどういう偉大な仕事をしたかとか、その言説にどこまで価値があるかとか、わからない。ただ彼女の存在そのもの、清らかな言葉だけに興味がある。古書の黄ばんだ帯には「人間を変革する新しい感性とは何か 内なるヴェトナムを問う爽やかな思考」とある。新しいことなど実は何もないのだ。誠実な了解だけがあった。復刊を切に希望する。

 

 

    • この歴史感覚ーどうじに過去、現在、未来を生きる感覚ーは、ヴェトナム民族の力の偉大な根源の一つに違いない。

 

    • 反復は、積極性を持った倫理のスタイルなのだ。

 

    • 欧米人の世間なみな“リアルの”感情は、友好的な社会秩序を保証するにたるだけの洗練された礼儀正しさや包括性を、首尾一貫そなえているわけではないのだから。定義上からも、礼儀の正しさとは、けっして真の誠実さとおなじではない。これはつまり、欧米人の社会行為とその正統的な感情の間に不一致がある証拠なのだ。

 

    • ヴェトナムにおいては、誠実とか誠意は個人の威厳をつかさどる機能なのである。(略)(西欧社会における)誠実な態度とは、好んで無知の状態におちることである。両者の相違は痛烈なものである。

 

    • 誠実とは、自分の役割にふさわしいと思う態度で振る舞う行為のことなのだ。誠実とは倫理的な熱望の一様式である。

 

    • (アメリカ人の)自己の存在証明にかかわる西欧的性格―が、疑惑の淵に投げこまれるのだ。

 

    • 私は北ヴェトナム訪問以後は、そのまえよりも世界がいっそう巨大なものに見えてきた、と証言してはばからない。

 

味噌汁とたらこスパゲッティがたべたい。