海の響きを懐かしむ

観たもの聴いたもの読んだものの記録と、日記など

プロ倫だょ

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み終えた。(1987年刊行の岩波文庫だったので、上下巻に分かれている。)読み進めるにあたって、先月読んだ『ふしぎなキリスト教』と、高校生の頃から愛読している山川の倫理用語集と、学陽書房『哲学の世界 名著100選』、wikipediaを参考にした。といっても精読ではなく、個別具体的な教義の話題や、ヴェーバー先生が巧く言及を回避している部分などについては、頭の角においておくに留めた。上述した本たちの助けの甲斐あって、理解するのはそんな難しくなく、楽しい読書体験だった。それから、ユダヤ人に対して必要以上に差別的な言い方だったのが印象的だった。以下メモ。

 

第一章 問題の提起

"近代"資本主義の精神:世俗的な生活において、合理性を重んじる倫理・精神・原則(エートス)をもつこと

エートス(ethos)と、物欲や拝金主義である営利欲は異なる。営利欲はキリスト教世界以外の地域や時代でも、見ることができる。ヴェーバーが主張しているのは、近代以降人々の中に内面化された生活様式・心的態度=エートスである。

その具体例=ベンジャミン・フランクリン

 

カルヴィニズムにおける貨幣の獲得とは、職業(独:Beruf/英:calling)の有能さの現れである。

労働の自己目的化は、みずからに与えられた使命として、職業を認知すること。

ドイツ語のBerufの由来は、ルターの聖書の翻訳にある。[ラテン語から日常語へ。すなわち世俗化]

信仰[≒神を喜ばせ、神の幸福を増やす)のためよりよい生活を送りたい→世俗的禁欲による慎ましやかな生活が有効である、というロジック

カルヴァンの予定説:神の救済を受けられる者とそうでない者は、予め神によって決定されている

 

 第二章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

 

現世にあたえられている使命ーしかも唯一の使命ーは神の自己栄化に役立つということであり、選ばれたキリスト教に与えられている使命ーしかも唯一の使命ーは現世において、それぞれの能力に応じ神の戒めを実行することによって神の栄光を増すことである。

「隣人愛」はー被造物でなく神の栄光への奉仕でなければならない。

(下巻 P.36)

 

分業にもとづく職業労働が「隣人愛」から導きだされる。

(そして隣人愛は、ユダヤ教以前より由来する報復の論理とも関係する)

 

予定説の世界でプロテスタントの者が、自己が救われていると確かめるためには、

  1. 神秘的な感情の培養=自分を神の力の容器と感じること。つまり、自分が救われている者と確信する(すぐれた自己確信)。
  2. 禁欲的な行為への系統=自分を神の力の道具として思うこと。つまり、1のような自己確信を得るために、絶え間ない職業労働を行う。
  • 時間に対する価値観

「時間が貴い」というのは、厳しい規律を守った修道院の僧たちに起因する。

→時間が奪われるということは、それだけ神のために労働する機会が損なわれたということ

→同様に、労働意欲の欠如も、神の恩恵の地位の喪失である

 

旧約聖書マタイ伝25:14:職業義務の遂行の物語

(主人から預けられた貨幣を運用せずにいた男が、追われる話)

・ヨブ記:人間を超越した神という存在に対する壮大な賛美

 

  • Deftigkeli(オランダ語):英語のnobleに相当

市民的・合理的な「正直」と、都市貴族的な身分意識の一種の混合物

 

以下の文章は、FablabやMakersコミュニティに代表されるような、「ものづくりの復権」みたいな話に通じると思った。

中世の手工業者は「自分の制作物」に「喜び」を感じつつ、多くのものを作ったというが、そうした「喜び」が心理的動因として、どの程度の強さをもっていたかは、もちろん疑問の余地がある。(中略)(禁欲は)現世的な世俗的な刺激をとりさって、それを来世の方向に向けた。職業労働はそのものとして神の意志に適うものとなった。現今における労働の非人間性、つまり個々人の立場からみて喜びが少なく、意味のないことが、ここでは宗教的に光明をさえ与えられるのである。(下巻 P.243)

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)