海の響きを懐かしむ

観たもの聴いたもの読んだものの記録と、日記など

『神谷美恵子日記』

私は人とのリレーションシップ〔関係〕、しかも最も密接な関係に於て最も私たる所以を発揮する。私の創られた目的、私のオリジナリティーはどうしても其処にある。

「ね、パパ、私、外交官とでも結婚してSociety〔社交界〕の夫人になったらとても素敵になれるわね、外国語をいくつも話して音楽や美術をかじっていて......」
「うん、それが君のもっともたやすく有名になる方法だ」
「そうしたらパパうれしい?」
パパは暫く黙って居られたが、やがて
「だが、医者をする事によって君の国際的方面が失われるのは惜しいね」
「失われるかしら?」

私に創造的才能があるとは思わないけれども、どうしても筆を通して言わなければならないものがあると信ずる。

私は今迄学生生活を伸ばして普通の人の「生活」の大部分をまぬがれている。それはずるいことでもあり、「損な」ことでもあったろう。「贅沢」でもあり「反自然」でもあったろう。しかし無意味なことではない、であってはならない。生活を暫く失礼して勉強させてもらえただけそれだけ学問と芸術に負い目があるのだ。ただ道楽に今迄勉強したのではないのだ。どうやって学問と芸術に、ひいては人生に御恩返しできるか、それが私の問題だ。結婚も、これを無視したものであってはならない。それで、結婚問題も、もう一寸待って下さい、と言いたい。

大ぜいの人間の中に於ける自分の位置を見出し、そこに収まることが出来るのだ。こんな変なsystemがあるだろうか。私だけだろうか、こんな分裂した意識内容で生きているのは。とにかく仕方がない、こんなふうに出来てしまっているのだから。

更年期に女ははじめて人間として生きはじめるわけだ。その時「実存」を確立できなかったら、余生はただ「生ける屍」になるほかないだろう。

(夫について)それなのにこのごろはまたとくべつやさしい。もしかすると二人の別れが近づいているのかも知れない。