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海の響きを懐かしむ

さみしくはない

ソフィ・カル『限局性激痛』(第二部)/原美術館

先々月から見に行きたかった展示にやっと行けた。
明日までなので、ぎりぎり。
『限局性激痛』のことは、何年も前に原美術館でソフィ・カルの作品をはじめて見て以来、
ずっと見てみたいと思っていた。


この作品は、作家であるソフィ・カル自身が大失恋をするところから始まる。
彼女は、失恋直後からその痛みを人に語り、また同時に、
第三者に痛みの経験を語ってもらい、それを聞き取る。
自分語りとインタビューは時を重ねながら交互に繰り返され、
やがて彼女は失恋という経験を血肉化し、癒され、乗り越える。
その語りと写真が連続した作品となっている。


また、これは日本語版独自の演出なのかもしれないが、
語りそのものが、紙に印刷されるのではなく
布に文字が刺繍されたタペストリーになっているのが、素晴らしかった。


時が経つごとに、作者の語りが客観的になり、
また他人の話を受け入れる余裕が出てくるのが、おもしろい。
具体的には、自分語りの文章がどんどん減るかわりに他者の話の分量が増え、
内容も簡潔になり、感情的なことばが減って淡々と事実が綴られるだけになる。


ところで彼女の作品を観ると、いつも上野千鶴子を思い出す。*1
「歴史に『事実 fact』も『真実 truth』もない、
ただ特定の視角からの問題化による再構成された『現実 reality』だけがある」という主張だ。
これは歴史認識に関する話なのだけれど、一般的な人間関係にも通じる話だと、私は解釈している。


パンフレットにも書いてあったし、他の作品にも通じることなのだが
ソフィ・カルの作品は、センセーショナルで、ドキュメンタリー的であるにもかかわらず
どこか冷めていて、虚実綯い交ぜになっているきらいがある。
何かが、嘘くさい。


しかしそれでよい。
痛みを乗り越えていくそのリアリティ reality は、たしかに壮絶なものなのだけれど
それが事実 fact かどうかは、釈然としない。
また、真実 truth は、当事者であるソフィと相手の男性にしかわからない。
何が嘘で、本当かは、この作品のリアリティの前には、塵のようなもので
受け手である私たちは、ただ圧倒されていればよいのだ。