海の響きを懐かしむ

観たもの聴いたもの読んだものの記録と、日記など

共感と共有のものがたり(『紫式部日記』と『枕草子』)

紫式部日記』、とりあえずビギナーズ・クラシックスを通読。


まずわかるのは、紫式部日記はやはり日記で、枕草子は随筆だということ。優劣をつけたいわけじゃなく、ふたつの書物は別々のジャンルだということが、肌感覚でわかる。宮廷の様子を女房の目から記した文章。同じようで、違う。




枕草子は、美意識という線で一本の筋が通っている。中宮定子への崇拝に近い思いを頂点に、サロンの美を維持しようとする高潔さ。それと明確に区別される、「場違いなもの(にげなきもの)」「ふさわしくないもの(すさまじきもの)」への痛烈な視線。審美眼に貫かれた『枕草子』の中で、定子は今も呼吸をしている。文学の中で人は永遠の命を得ることができるのだということに、心動かされる。


やがて定子一族は没落し、みじめな生活を強いられるようになる。けれど、解説なくしてそんなことには気づかない。一見清少納言の主観の連続のようでいて、実はそうではない。すべては定子を讃え、その美しさを世に留めるため。いかなる時も開放的で知的な雰囲気に満ちたサロンを維持しようとする清少納言に、女の意地を超えた、強い意志を感じる。


ひるがえって紫式部日記は、あくまで彼女のパーソナルな視点で進行する。読み始めは、平凡な日記では?と思ったけれど、それはすぐに裏切られる。


その中心をなすのは、女房としての紫式部の成長物語。30近くまで主婦をしながら『源氏物語』を書いていた彼女は、藤原道長によって皇后彰子の女房となり、遅い社会人デビューを果たす。正直に吐露される、宮廷社会の辛さ、働くこと・現実の苦しさ。そんな状況でも、物語という虚構の中に安らぎを見出している彼女は、フィクションの強さを胸に生きていく。そうした心の動きは普遍的で、働く現代人にも共感できるものだ。



しかし紫式部は徐々に態度を変え、意欲的に仕事をこなすようになる。それは過去の自分をどんどん捨ててゆく過程でもあり、彼女はその無常さにも気づいている。自らの心の変化をかすかに意識しつつ、女房としての立ち位置や振る舞いを理解していく。そんな彼女に立ちはだかる壁が『枕草子』であり、死してなお艶やかに、人々の心に思い出される中宮定子の姿だ。「したり顔にいみじう侍りける人」という記述の背景にはそうした紫式部の変化がある。


このふたつを敢えて対比させるなら、それは「共感」と「共有」の違いなのだと思う。


紫式部日記では、読者は著者の心の動きをたどることで、共感し、友だちの内緒話を聞いてるような気分になる。


対して枕草子は、あらたに世界を覗き見るためのレンズのようだ。それまでの景色が解像度が上がって見えるような。文章を通して、読者は清少納言と五感を共有するのだ。


最高権力者とその周辺の人々の日常。美しいことも、そうでないことも、キラキラ香気をはなっている。本当に、「みやび」とはこういうことを言うのだろう。