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海の響きを懐かしむ

さみしくはない

窓の開け方

パーティというのは基本的に、気が滅入るものだ。しかも厄介なことに、それがハッピーだったりエモーショナルだったりすればするほど、宴のあとには空虚さだけが罰の悪そうに漂う。

 

だって、想像してみてほしい。髪の毛先にこびりついた、酒と煙草のぼんやりと交わった匂い。どんどん数だけ増えていく、飲み残しのグラスたち。夜にふやけていく視界。

 

そう、「素敵」たちはいじわるで、一瞬で消え去ってしまうのだ。それが他人を祝うものであるのなら、なおさら。

 

あんなにきらめていた世界はすごい速度で溶け去って、その残像に引っ張られながら私たちはまどろみの中に落ちていく。そして、食べものと飲みものと、何か善とされるものを消費した、という気持ちだけが、おはよう、と朝の枕元に座っている。

 


人はみな何かの役割を演じて生きている。そしてそれを求められたり、時に他者に求めたりを繰り返して、なんとか人生を組織していってる。

何かを祝う、という純度の高い目的を伴う空間のなかでは、その役割はふだんにも増してくっきりと、透明な輪郭に縁取られてわたしたちの前に現れる。まるでガラスの靴みたいに。

シンデレラストーリーというと限られた人のものみたいだけれど、本当は誰だって、シンデレラにはなれる。その役割を一手に引き受け、同時に、他人にも役割を要請する、その覚悟さえあれば。

 


だから、もう、とにかく、後に一切何も残らない宴をしたいと思った。ううん、正確には、発光した瞬間だけを冷凍保存して、残りは跡形もなく焼却処分できるようなパーティを。ただ、何かが光り、それがいい気分だった、という感情の残滓だけがあって、ほかに隙のない宴。

そのためにわたしは、ふだんあまり近づきたくないところにある、窓に手をかけた。その窓を開けたところから見える景色に、ふと関心を抱いた。こんなことは初めてだった。

 

 

窓を開く。そう決まってからの段取りはとても早かった。もう一人の主演がどう感じていたのかはわからないが、やや過剰気味に、前のめりなおもてなしをすることにした。みんなに、後に何も残さず去ってもらうためには、すばやさを最大限に上げて矢継ぎ早に技を繰り出すのが吉と悟ったのだ。


とはいっても、二人で企画していると客観的な視点を持ちづらく、このままでよいのかと悩んだりもした。果たしてこれは他人にとって面白いのだろうか・・・・と。そんな時に、たまたま雨宮まみさんの記事を目にした。それを読んで、ああ、パーティというのは、真ん中にいる人が、幸せそうにしていることが大切なんだ、とやっと気づいた。

 

幸せそうにすること。それが本当に当人が「幸せ」であるかどうかは、実は関係ない。幸せなふりをすれば、それは本当になる。演技こそ、態度の表出こそ、本物になる唯一の道なのだと。

 

 

慌ただしく準備をし、当日を迎え、数日が経った今、冷静に考えると反省点もないわけではない。もっと幹事をしてくれた友人たちに頼ればよかったなとか、ゲスト一人ひとりをケアすることはできなかったなとか。考えればキリがない。

 

でも私は少なくとも、ど真ん中にいて、いい意味でずっと空っぽの気持ちだった。ドーナツの輪みたいに、ぽっかりと窓を開き、そこからまた帰ってくることができた。色んな人がたくさん言葉をかけてくれたし、わけのわからない写真もいっぱい撮れたけれど、びっくりするほど後には何も残っていない。ただ、何かがぱあっと弾けて、散っていった。その散開する様子を、多分あの場所にいた全員が見た。それだけで十分だ。

 

 

とても、とても幸せだった。

 

 

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(歌い踊りながら登場する主役の様子)